2018年1月7日日曜日

vol.1560 不器用な男だから

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 ずいぶん前のことだから、もう正確な日付は忘れけれど、ブログを読んでくださっている人から、艶っぽい話題が少ない、と。正鵠を射た指摘で、反論の余地がなかった。しかし、だからこそ、いつかそうした話題を書いておかなければ、(少し大げさな言い方が許されるのなら)男が廃ると、僕は肝に銘じていた。そこで、記憶の引き出しを開けて、僕自身の経験をいくつか書いてみた(vol.1545、vol.1551、vol.1558、vol.1559)。
 どんな男性なのかは連れている女性を見れば分かるとまでは言わない。けれど、どんな男性なのかは書いた女性を読めば分かるような気がする。僕には絵心がないけれど、画家(男性)の場合も、ひょっとしたら描いた女性を見れば分かるのかもしれない。ルノワールが描いた女性たちは、現代の日本では人気が高いことから、彼がどんな男性だったのだろうかと思い巡らせてみたりする。
 ルノワールは女性に囲まれて暮らすのが好きだったらしい。ルノワールの描く女性は皆、豊満だ。健康を脅かしても痩せて見せたい(その努力する姿勢は評価に値するとしても)という現代の女性と、画家の目から見た美しい女性、つまり絵のモデルとしての女性は正反対だ(どう解釈したら、いいのだろうか)。僕は木彫りをすることから、しからばマイヨールの彫刻はどうだろうか。裸婦像は太ってもいなければ、痩せ過ぎてもおらず、少しふくよかだ。やはり時代が変わったからなのか。
 閑話休題。僕の書く文章にも女性が登場するけれど、彼女たちを書くために文章を書いているのではない。そんな器用なこともできはしない。ただし、たとえ紙の上であっても、彼女たちに生命を吹き込まなければならない。それが僕の重要な役割である。そこには小手先の技術は通用しないだろう。彼女たちの人生を、その一部分でもいいから、書きたいと願っている。自分が愛した女性ならば、なおさらだ。

 以下は余談。
 僕はお手本とすべき人生の達人を知っている。小関先生(昭和9年生まれ)と長谷川先生(昭和8年生まれ)のお二人だ。僕にどれだけの時間が残されているかは分からないけれど、お二人の足元に少しでも近づくことが人生の目標の一つで、今年もその目標に向かって一歩、また一歩と進むんだ、と。
 下の写真は小関先生の著作『複眼の文化論』の目次で、僕のバイブルです。
 

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