2017年12月23日土曜日

vol.1550 僕の辞書、裏切る言葉

 ブログ「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 僕の辞書には、馬齢を重ねるごとに言葉が増える。それは誰しも一日一日を生きていれば、同じであろう。自分の使っている言葉は人生経験と表裏一体だ。箸使いのきれいな人に好感を持つように、僕は言葉遣いのきれいな人に憧れる。
 僕が若かりし頃、心底、好きになった女性は、出会って、ゆっくり話をしてみたい女性だった。別段、難しい話題ではなくて、ちゃんと普通に会話ができて、しかもだんだん話しているうちに心が楽しくなってくるような女性だった。彼女を抱いたときよりも、膝を交えて話をしていたときの方がずっと嬉しかった。
 子どもの頃から、長生きをすれば(毎日を懸命に生きれば)、それだけ言葉が豊かになると、僕は信じ込んでいた。けれど、実際はそうではなくて、失われていく言葉もあることを知って、愕然とした。例えるならば、雪が降って、積もるみたいに言葉は増えるが、一方で、融けて跡形もなく消えてしまう言葉もあるのだ。
 そもそも言葉というものは、人の命に似ている。生まれ、話されたり、書かれたりして、やがて死語になる。そして、人には言葉にはできない感情もある。とりわけ、悲しいや寂しいといった感情は言葉だけでは、そのすべてが伝わらない。何が悲しいのか、どうして悲しいのか、それを言葉にしなければならない。しかし、この世には言葉では説明できない、漠然とした悲しみもたくさんあるのだ。
 この世に不気味な力があるとしたら、それは核兵器ではない。誰もがいつも使っている言葉だ。人を殺すのに、凶器なんか必要ない。言葉はどんな刃物よりも鋭くて、人の心をズタズタに切りつける。発せられた言葉は時として、ピストルようにもなり、心に大きな穴を開けてしまう。微塵も容赦はしない。残酷な冗談で、その人を否定して、どん底に突き落としさえすればいい。さすれば、深い傷(致命傷)となって、殺したのも同然だ。体の傷は時間が経てば、自然と癒えるかもしれない。が、心の傷が簡単には癒えないことは誰もが知っている。
 冷たく、暗い闇の中に、その人を閉じ込めてしまうのが言葉ならば、それを救うことができるのも言葉だ。果たして僕の言葉はどちらだろうか。

 以下は余談というか、日記。
 毎年、身長は変わらないのに(178センチ)、今年は体重が60キロを超えそうになって、ひどく焦った。原因はやはりストレス過食だったのだろう。現在は少し元に戻って、57キロ。お腹の出た中年男は傍から見ても気持ちいいものではない。僕の年齢からすれば、致し方ないことかもしれないが、そうした中年男にだけは絶対になりたくない。太っていると重い病気になるかもしれないから、心身共にシャープであらねば(参考までに記すと、ジムに通うなどの運動もしていなければ、取り立ててダイエットもしておらず、もちろん、ちゃんと食事をしています)。
 下の写真は僕の体年齢で、いつ計測しても、実年齢より20歳以上も若いことから、やはり故障なのか。
 

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