2011年9月14日水曜日

vol.453 幸田露伴「雪粉々」 呑空法師と円空さん


 ツーリング・レポート「東海・旅の足跡」をお読みいただき、ありがとうございます。

 久しぶりに読書の話題を。
 いつもお世話になっている「円空仏彫刻・木端の会」のMさんから、「円空さんのことが書かれているよ」と薦められて、『露伴全集』第7巻に収録されている「雪粉々」を読んだ。(参考までに記すと、幸田露伴の『雪粉々』は、明治22年から読売新聞に連載され、第14回目を以って中絶。その後、新たに堀内新泉との合作『新雪粉々』として刊行される。物語は史実をヒントに創作された)。
 幸田露伴は引(序文)にて、「呑空法師は烏有の人なり。されど美濃の国の僧にて今釈迦と呼ばれたものの、北海に入りて教化に勤め、處處に参籠して仏像を納めなどせしは、あたかも沙具沙允(シャクシャイン)乱の前後のことなり。これに因みて呑空は作り出されたるものなり」と記している。
 『雪粉々』では、「何時(いつ)の頃よりか此島に渡り来て、東西流浪行脚の末、静雁村に少時止(とど)まり、今も尚沙具沙允の家に杖と笠を置き、アイノの愚矇を深く憐れみ、教へ導」いた呑空法師が、アイヌの人に「いろは(御禁制の文字)」を教えた罪により、「土地払ひ」となる。呑空は曰く、「離別(わかれ)は仮令(たとひ)一月二月一年二年止まりたりとて終には必ず有る事なり、今更女々しく歎くべからず、我は是より上場所(東海岸の事)に越え、臨機応変世を経べし…」と書かれている。
 『新雪粉々』では、巻末で呑空法師について、「後談は無し。或ひは人に殺されしとも伝ふるあれど確ならず、もとより雲水の僧なれば山阿水隈如何なるところに入寂せしか知るべからず、其終定かならずと云ひ伝ふるは却って真に近きならん」と記されていた。
 僕は明治の作家は苦手で、幸田露伴の『雪粉々』も例に漏れず、どれだけ読み込むことが出来たかどうかは、はなはだ心許ない。
 これを読むきっかけを与えてくださったMさんは、「明治34年という円空が世間のごく一部しか知られていない時代に北海道の地で作家になっていない頃の露伴が円空を知っていた事に我々が未だ知らない円空さんがいるのではないか。今一度江差の円空の本を読み直してみたいと思います」と感想を述べている。
 Mさんは日頃から大変に勉強熱心で、そうした探究心の旺盛な姿勢に尊敬の念と頭が下がる思いがする。このブログでも紹介しているのだが、僕の恩師であるK先生の言葉に、「子どもの好奇心を見習うべし」というのがあり、それに通じるところがあるように感じるのだ。
 ところで、円空さんが彫る円空仏というのは奥が深くて、上手に彫るのはなかなか難しい。この場合の上手にとは、本物とそっくりに彫るということである。僕は上手に彫れなくて、日々もがいているのだが、いつもご指導いただいている「円空仏彫刻・木端の会」のYさんからは、「焦らず、ひとつひとつ、楽しみながら彫りましょう」との助言を得て、ふと、彫る手が止まったときは、Yさんのアドバイスを思い出す。
 Yさんからのアドバイスは、技術的なことはもとより、いつも輝く宝石のように大変素晴らしくて、熟読玩味している。過日も、「彫りに完成は無いと思います。何処まで行っても修行です。無心なって彫っている時の充実した気持ちが有難いです」とあった。僕の場合、バイクを運転したり、原稿を書いているときに、集中力が高まって、そうした境地になるときがある。
 最後に、円空仏を彫ることに関して、僕の恩師であるK先生から届いた手紙には、「円空さんが彫る微笑仏のような人間になるように」とあった。もはや上手に彫るというレベルを超える話になってしまった…。

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