2018年4月25日水曜日

vol.1617 「懐かしい」という言葉の時間差は重みである

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 前回の更新(vol.1616)からの続きて、昨日の午前中は長谷川公茂先生と楽しい円空談義でした。
 会話の最中、「懐かしい」という言葉が出ました。
 下の写真は僕が愛用している『ベネッセ表現読解国語辞典』で、「懐かしい」の項目です。


 例文には、「学生時代が懐かしい」とあり、僕自身も、例えばブログの中において、そうした表現で、過去に何度も使っています。
 しかしながら、長谷川先生の口から出た「ああ、懐かしいですね」は僕が生まれる以前(50年以上前)のことで、僕の口から出る「学生時代が懐かしい」は約25年前。同じ単語でありながら、その時間は四半世紀も違っていました。
 至極当然のことながら、長谷川先生と僕とでは、いわゆる「言葉の重み」が違うということ。

 以下は余談。
 某寺蔵の円空仏について、僕は人一倍、詳しいと自負していたけれど、知らないことが出てきた。それについての悉皆調査をした資料や『円空研究』などを手当たり次第、読んでみたのだが、載っていない。調べてみても、一向に分からなかったので、長谷川先生にお聞きしたところ、やはりご存じであった。「逆立ちしても」というのは、こういうことを指すのだろうと。

2018年4月24日火曜日

vol.1616 長谷川公茂先生は現代に生きる円空さん

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 今日の午前中は長谷川公茂先生とお会いして、円空さんに関する打ち合わせでした。
 打ち合わせの後、喫茶店へ行き、下の写真にあるように少し遅いモーニングを食べながら、長谷川先生との楽しい円空談義で、幸せな時間を過ごしました。
 

 円空さんに関しては、長谷川先生しか知らないこと、長谷川先生に教わらないと分からないことだらけで、教わったことはすべて僕のかけがえのない財産です。
 長谷川先生は僕が生まれる前から円空さん一筋ですから。まさに現代に生きる円空さんと言っても過言ではありません。

2018年4月23日月曜日

vol.1615 全国消防カードのトレード(交換)

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 久しぶりに公共配布カードの話題を。
 ブログをお読みいただいていたr51様から、全国消防カードをトレード(交換)していただきました。
 下の写真がそれで、この場を借りて、お礼申し上げます。
 

 引き続き、公共配布カードのトレード(交換)を希望しています。詳細については、こちら をご参照ください。

 以下は余談。
 外はすこぶる好い天気だというのに、今日は一日、いわゆる缶詰め状態であった。惜しいことをした。パソコンに向かい、座りっぱなしで、コーヒーを何杯もおかわりした。しかしながら、今日という一日がおよそ30年先までの、既に僕は生きていないだろう未来のために役立つのだと思えば、嬉しくもある。

2018年4月22日日曜日

vol.1614 『ヨハネによる福音書』第六章(自己解説)

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 前々回の更新(vol.1612)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第六章についての話題に触れたい。

 一〇 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
 一一 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。

 一九 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
 二〇 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。

 三五 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

 四七 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
 四八 わたしは命のパンである。

 五三 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
 五四 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
 五五 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。

 上記はご存知のとおり、第六章からの引用である。それぞれが大事なことであるのは言うまでもない。
 が、しかし、僕にとっての第六章は下記に収斂される。

 六七 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
 六八 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
 六九 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
 七〇 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
 七一 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
 

 ユダの存在こそが僕にとって、『ヨハネによる福音書』の続きを読ませるのだ。なぜなら、理由はここ(vol.1548、vol.1557、vol.1562、vol.1581)に書いてある。

2018年4月21日土曜日

vol.1613 造仏作善と『般若心経』

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 連日、『聖書』の「ヨハネによる福音書」について更新しているが(vol.1610、vol.1611、vol.1612)、ご存知のとおり、僕はキリスト教信者ではなく、れっきとした仏教徒だ。
 木彫りの仏像(円空仏の模刻)をこれまでに5000体以上、彫っている。そうしたことについては、過去、千体仏に挑戦したりと、ブログで何度も書いた。いわゆる「造仏作善」である。
 この春からは何か新しいことを始めたいと思い、朝、昼、晩と、決まって『般若心経』を唱えることにしている(できなかった場合は就寝前などにまとめて唱えているけれども、家の者から「怖い」と不評)。
 もちろん、これまでにも折にふれて、『般若心経』を何度となく唱えている。けれども、それは一旦、リセットして、年に1000回以上を唱えることで、それを続けていけば、いつかは積み重なっていく。
 『般若心経』を必ず唱えることで、別段、何かを得ようというわけではなく、これも人生修行の一環だ。せっかく阿弥陀様から与えられた限りある命だから。その日まで。
 「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」。
 『般若心経』だけでなく、もちろん「お十念」も忘れずに唱えています。

 以下は余談。
 今日の午前中は小牧市にあるメナード美術館へ行き、明日までが前期展示ということで、所蔵企画展「ひと 人・顔・姿」を見てきました。
 下の写真がそれで、入口にいた係員さんによると、どうやら一番乗りのようでした。
 

2018年4月20日金曜日

vol.1612 『ヨハネによる福音書』第五章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1611)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第五章について。

 五 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

 いったい何の病気なのかは分からない。「盲人」なのか、「足なえ」なのか。
 単純に考えると、38歳以上の、現代ならば、中年男性ということになる。ならば、彼を自分自身と仮定して、次に続くエピソードを読み進めたならば、人の振り見て我が振り直せ、と諭されているような気がするのは、きっと僕だけではないはずだ。

 一四 そののち、イエスは宮でその人と出会ったので、彼に言われた。「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかもしれないから。」

 彼の未来はいったいどうなったのであろうか。

 三九  あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
 

 『聖書』の中に答え(「永遠の命」)はない。イエスその人こそが答えであるから、と。仮に答えがあるとしたら、それは一人ひとりの人の中に、そして僕の中にもあるのだと、イエスは教えてくれている。なんとありがたいことだろう。

 以下は余談。
 昨年末の更新(vol.1546)で、今、読んでいるお気に入りの漫画について書きました。『別冊マーガレット』に連載中の安藤ゆき「町田くんの世界」(集英社)と『ベツコミ』に連載中の八寿子「こんな未来は聞いてない!!」(小学館)が最終回でした。両作品とも途中、ストーリーに凄く引き込まれて、楽しみに読んでいました。『ココハナ』に連載中の森本梢子「アシガール」(集英社)は果てしてどんな結末になるのか。

2018年4月19日木曜日

vol.1611 『ヨハネによる福音書』第四章(自己解説)

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 前回の更新(vol.1610)からの続きで、『ヨハネによる福音書』第四章にて、僕が深く感じた(感銘を受けた)のは、サマリアの女に対するイエスの言葉である。

 六 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
 七 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

 僕が思うに大事なことは、イエスから話しかけた(そして、会話が続いて行く)ということ。

 一三 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
 一四  しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

 イエスが語る一つひとつの言葉の中に深い意味があるのはもちろんのことですが、それを自分自身に置き換えると、さらにとても奥深く感じます。

 二五 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
 二六 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

 僕の人生にも、そうした出会いがあった。それが何よりの喜びだ。だから、イエスの言葉に心を打たれるのかもしれない。
 『ヨハネによる福音書』第五章以降(の自己解説)は別の機会に。

 以下は余談。
 長年、目を通している『パブリッシャーズ・ビュー』の今号には、下の写真にあるように「継続送付のご希望」に関するお知らせが同封されていた。
 

 出版不況で書籍の売上が苦しく、経費節減の一環だろうと想像して、葉書を送るのを止めることにした。少しでもお役に立てば、と思う。